魔王続編
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デストロイヤーの初来日は昭和38年5月。力道山との大死闘は4の字掛け合ってのノーコンテスト。視聴率なんと64%!力道山最後の好敵手となり白覆面の魔王は誰もが知る有名プロレスラーとなった。その年の暮れ、力道山死去。翌年、力道山一周忌に1番有名な外国人レスラーとして日本プロレスはデストロイヤーを呼ぶ。豊登対デストロイヤー戦を力道山の弔い試合とした。デストロイヤーの存在は興行の要だった。ジャイアント馬場の大きな成長もあり、力道山亡き後もプロレスは落ち込むことはなかった。その頃、1番の話題は力道山が持っていたインターナショナルタイトルの争奪戦。後継者と思われていた馬場さんはデストロイヤーと2度にわたる争奪戦。2度とも1時間戦う大激闘。馬場さんは1勝1分けでデストロイヤー戦を乗りきる。内容的にも大変な名勝負だったようだ。最後はディック.ザ.ブルーザーを破ってインターナショナル王者となり力道山の後継者と自他共に認められるんだが、なんと言っても、最も知名度が高い外国人レスラーデストロイヤーとの死闘が話題
を提供した。力道山死後、デストロイヤーは昭和39年暮れから1年間で3度も来日している。当時のデストロイヤーは全米マットでも指折りの売れっ子レスラー。そりゃ日本プロレス協会がそれ相応のギャラを提示しただろうが、それにしても、当時のトップレスラーがこれだけ頻繁に来日することは珍しい時代だった。もし、デストロイヤーがアメリカマットだけ大事にして来日することがなかったら。馬場さんとの死闘が名勝負になり得なかったら。日本のプロレスは違った形で存続していたかも知れない。実際力道山がいなくなってプロレスはもう終わりだと言われていたんだからね。デストロイヤーは日本プロレス界の大恩人だと思う。今だに4の字固めはプロレス技の中で1番有名な必殺技であろう。
Comment
渕選手へ
Mr.デストロイヤーのお話、拝見しました。
試合観戦は無いのですが売店でマスクを販売されていた事を覚えています。マスク越しでも優しさがはっきりとわかる笑顔が素敵な方です。Mr.デストロイヤーが日本を好きになってくれた事が嬉しいです。
貴重なお話を綴って頂き、どうもありがとうございます。