鉄人ルーテーズ
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私がプロレスラーになろうと思ったきっかけの写真。小学校6年の時に母親から「あんたも鍛えれば、こんな身体になるんじゃない?」と言われた。もちろん母親は軽く無責任に私を喜ばすために言っただけ。私は背は高かったが、どちらかと言えばひ弱な小学生。だが母親の一言は効いた。即日腕立て伏せを始めた。父親が買ってくれていたエキスパンダーをやっと使い始めた。いきなりの鍛練で翌日筋肉痛に泣いた。まさしく鉄人を思わせるルーテーズのポーズ写真。小学生の私にはインパクトがあった。逆三角形の鍛えあげられた見事な身体。またベルトがよく似合っている。日本のヒーローだった力道山がなかなか勝てなかった世界最強の男。やっと勝てた時は一般新聞のスポーツ欄に大きく取り上げられたという。必殺技バックドロップ、脳天逆落としは世界一の威力。決まれば誰も返せない。そして身体つきはまさに鉄人。力道山の空手チョップもあまり通用しない。なんて、そう信じられるほどのイメージをこの写真は小学生の私に与えてくれた。人間は鍛えればこんな鉄人のような凄
い身体になれるんだ!ってね。昭和41年2月、鉄人ルーテーズは3度目の来日をした。前年インターナショナルチャンピオンベルトを巻き、名実とも力道山の後継者となったジャイアント馬場に挑戦するためである。私のプロレス熱はこの頃から燃え上がった。鉄人ルーテーズは新チャンピオンジャイアント馬場にとってあまりにも強敵過ぎる。最大のピンチだ!会場の東京体育館は超超満員!入場出来ないファンが千駄ヶ谷駅前まで溢れたという。大げさじゃなくて。タイトルマッチの結果は2対1。ジャイアント馬場は必殺バックドロップを食いながらも見事ルーテーズから2フォールを奪ってインターナショナルタイトルを防衛した。試合内容は歴史的名勝負だったとプロレス評論家の故菊地孝さんが絶賛していた。あの鉄人ルーテーズに勝ってタイトル防衛したことでジャイアント馬場のプロレスラーとしての価値は定まった。正式な力道山の後継者とプロレスファンは認めた。私もプロレス少年として一層ジャイアント馬場ファンになった。それから幾年月。私は憧れのジャイアント馬場
さんの全日本プロレスに入団してアメリカ遠征を経験した。1981年3月、テキサス州サンアントニオの会場でいきなり「コンバンハ」と日本語で声をかけられた。声の主を見るとなんとあの鉄人ルーテーズ〓まさに初遭遇。メインエベントの特別レフェリーとしての来場であったようだ。早速拙い英語で挨拶して捲し立てる私(笑)。憧れの鉄人を前に確かに私はあがっていた。鉄人は静かに笑みを絶やさず日本の思い出話を語ってくれた。むろん短い時間であったが。ルーテーズは日本プロレスの恩人だと思う。この人との試合で力道山もジャイアント馬場も成長した。そして日本のプロレス界も。また世界的にもプロレス界の鉄人だった。このポーズ写真を見る度にプロレスラーとして今だに理想的体躯だと思うのは果たして私だけであろうか?
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Comment
渕選手へ
「鉄人ルーテーズ」拝見しました。
Mr.ルーテーズの印象といえば紳士の佇まいです。写真からも静かに微笑んでおられる様なご様子。拝見出来ている事が幸せです。
恩人が居る事は幸せですね。プロレス好きで良かったと実感出来ています。幸せなお話どうもありがとうございます。