1973年春、再び
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練習生ながら入門を許された私は半年ほど住んでいた茅ヶ崎のアパートを離れ全日本の合宿所である目白のマンションに移り住むこととなった。当時若手であった鶴田さんと佐藤さんが住んでいた。和室の6畳間が3部屋、同じく6畳の板張りダイニングキッチン。むろん洋式トイレと風呂付き。ダイニングルームの真ん中に鉄板焼が出来るテーブルが置いてあった。椅子はない。すべて和式。テーブルのそばには座蒲団。その時期、佐藤さんは馬場さんの付き人だったので1部屋は馬場さんの荷物で埋まっていた。佐藤さんは一人部屋。私は鶴田さんと同じ部屋で寝泊まりすることとなった。最初の日、なかなか寝付かれない私に付き合って鶴田さんは深夜までいろんな話をしてくれた。「お互いアマレスやってて大学まで行ったのにこの世界に飛び込んだんだ。もうこれしかないって気持ちでやるしかないんだよ。キツくても途中で辞めちゃダメだ!」「勿論辞めません。好きな世界に入れたんですから」「俺はもうすぐアメリカ行くけどさあ、帰って来てもいてくれよ(笑)」「いますよ(笑)。せ
っかく入門出来たんですから」「そうだな…。馬場さんはいい人だし、先輩達も悪い人いないしなぁ。安心して頑張れる会社だから。そのかわり練習はしっかりやらないとな」「はい!…鶴田さんどのくらいアメリカに行ってるんですか?」「半年から1年ぐらいか」「帰って来たら大スターですね」「バカいうな!そんな甘い世界じゃないって!(笑)それよりお前がどう変わっているか?何人か新弟子がいて、いっぱしの先輩面になってるかもな。女もいるかもしれないし(笑)」「まだそこまでは…」。その時、互いの布団に寝そべって話す2人の枕元の襖が開いた。「ないない!こんなニキビ面に女は寄り付かない!(笑)」と言って佐藤さんが話に加わって来た。結局夜明け近くに3人とも眠ることとなった。この年のこの3月、今も続くチャンピオンカーニバルの第1回大会が開始された年であった。以前から憧れだったザ.デストロイヤーと初めて会って話した時は感激した。私は…鶴田さんとの約束は守れなかった。7ヶ月後、全日本の新星スターとなってアメリカから帰国した鶴田さんと
の再会は果たせなかった。私は3月中にすでに全日本を辞めていた。原因は北九州に住む父の病気。父はプロレス入門に反対していた。東北巡業中に会社から連絡が来た。父が倒れたとの知らせ。結局は長男として看病となった。やっと父を説得して再入門出来たのは1年後だった。
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渕選手へ
練習生時代のお話、拝見しました。明け方まで話し込んでしまうなんて、良い先輩に恵まれていらっしゃいますね。お話の内容まで覚えている程の思い出深い合宿所生活だったのかと。一度辞めて再入門出来た事もご縁が有ったのですね。更に続きのお話をお伺い致したく是非ともよろしくお願い致します。暖かくなって植物も動き出して参りました。どうぞお疲れになどなりません様、ご自愛くださいませ。