力道山の時代
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昭和30年代。日本は戦後復興から高度成長期に入ろうとしていた。民衆はヒーローを望み、またその期待に応えるかのように各分野でスーパーヒーローが出現した。その中でもダントツのスーパーヒーローが力道山であった。敗戦国日本のプロレスラーが戦勝国アメリカのプロレスラーをカラテチョップで叩きのめす〓大歓声!やんやの喝采!嬉し涙…。とてつもないプロレスブーム到来〓力道山は日本最大のスーパーヒーローになった。プロレスを見るために当時高かったテレビを大衆は購入した。テレビのある家にご近所が集まり皆でプロレスを見る。そして身体ごと興奮してヒーロー力道山を応援する。まさしく三丁目の夕日の世界。馬場さんが入門した昭和35年時分はまさに力道山の絶頂期。バックには政財界のトップがいて、力道山は何処に行くのも特別な存在であったらしい。間違いなく当時日本一のスーパーヒーロー。異論があるかも知れないが、その頃美空ひばり、石原裕次郎の上に位置した存在だったと馬場さん始め当時を知るプロレス識者は断言していた。昭和38年春、馬
場さんが凱旋帰国会見を羽田空港で力道山と共にやった時には、それこそ何百人者のマスコミ連中が集まったと聞く。テレビ出演、そして映画出演とリング外でも忙しく馬場さん自身とまどったようだ。力道山の一言一言がそのままニュースになった時代だったんだなあ。力道山は昭和38年12月に死去するまでスーパーヒーローの立場を維持した。馬場さんが言ってた。「もうあんな凄い人は出て来ないだろうなぁ…」と。かの世界のミフネこと俳優三船敏郎が昭和36年「用心棒」でベネチア国際映画祭に於いて最優秀男優賞を授賞した時、日本映画会そして国民は大喝采をした。三船敏郎は知り合いの記者に「これで少しは力道山に近づけたか?」と半分本音まじりで囁いたと云う。本当かどうか知らないがね(笑)。それほど力道山は凄かったんだね。我々にとってプロレスを日本に根付かせた大恩人力道山先生だ。力道山時代のプロレス熱が再び到来することはあるだろうか?第2の力道山は出現するだろうか?
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渕選手へ
ブログ拝見しました。街頭テレビや力道山人気は父から聞いていました。仰る通り、とてつもなく熱中していたと何度も聞きました。プロレスの試合を見た事が無くても格闘技と認識してもらえますので、日本に根付いている事は間違いありません。その次が今でしょうか。令和はどんな時代に成るか、とても楽しみです。これからも応援させて頂きます。何卒よろしくお願い致します。もうセミが鳴いています。どうぞお疲れになどなりません様、ご自愛くださいませ。