デストロイヤーの話
公開日:
:
ブログ
デストロイヤーが初来日したのは1963年5月。1965年5月に来日したのは5度目。それ以前の4度の来日は全て短期間の特別参戦。別格のスターレスラーだったんだね。5度目の来日で初めて長期間約2ヶ月の日本滞在をする。この5度目が日本に対するひとつのターニングポイントだったとデストロイヤー本人から聞いたことがある。初の長期滞在。知名度抜群のデストロイヤー出場で各地満員続きのシリーズだったらしい。力道山亡き後では当然新記録の黒字続きのシリーズ。豊登、ジャイアント馬場とのタイトル戦ラッシュ。WWA世界戦、アジアタッグ戦、インター争奪戦。「豊、馬場、魔王と激戦!」と毎日、スポーツ紙の一面を飾っていた。このシリーズの最終戦、デストロイヤーは超満員の台東体育館で馬場さんとインター争奪戦の一騎打ちをやり、初めて日本で馬場さんに敗北。3本勝負で1本目を1分ほどで取られ、そのまま60分。0対1で負けた。初めてデストロイヤーに勝ったジャイアント馬場にプロレスファンは熱狂。力道山の後継者と認められた試合であり、馬場
さんもデストロイヤーも忘れられないシリーズだったことに間違いはなかろう。「あの頃、馬場はまだ若く、まだまだ発展途上だったが人気は凄かった。だが力道山死後は豊登がトップで馬場は2番手。それが、この試合で俺に勝ったことで一気に豊登を抜き日本マットのトップに立ったんだよ。また試合内容も評価された。当時の馬場はアスリートとしても素晴らしく今後この男とは日本でいい試合いいビジネスが出来ると確信したシリーズだった」。このシリーズ、デストロイヤーは馬場さんとシングル3度戦い1勝1敗1分け。お互い忘れ得ぬシリーズだったんだろうなぁ。以後、デストロイヤーは毎年のように来日して馬場さんと対決する。ワールドリーグ戦にも2度参加。2度共決勝進出。馬場さんとのタイトル戦はいつも超満員。日本に於いてはテーズ、サンマルチノ以上の知名度No.1の外国人レスラーであった。話は続く…。
関連記事
-
憧れの有名人との遭遇
北九州で生まれ育ち、テレビ、新聞、雑誌で知る有名人に憧れを持つのは我が少年時代の日常だった。スポーツ
-
ギックリとまでとは…
雨が上がり、昼過ぎからお日さまが顔をのぞかせた。それで甥っ子らと30分ほど庭手入れ。雑草手入れだ。大
Comment
渕選手へ
「デストロイヤーの話」拝見しました。続きのお話を綴って頂きまして、どうもありがとうございます。60分戦い抜いての初勝利…体育館が揺れる程の大歓声が想像出来ます。手に汗握ってしまいます。更に続いてくださるとはありがたいです。次回もよろしくお願い致します。気候が大きく動いております。どうぞお疲れになどなりません様、ご自愛くださいませ。
Superdry males’s Germany Trophy Series t-shirt.
Es sind maximal 0 von 9 Trophäen erspielbar.
Es sind maximal 41 von 45 Trophäen erspielbar.
Vergeben wird auch der Titel “Distillery of the Year”. https://Www.Pokale-Pomeki.de/medaillen–