1974年4月
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最終更新日:2018/04/07
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前年3月、父の急病の為、ひと月足らずのプロレス生活に一応の終止符を打ったが、どうにもあきらめきれない。父は1週間ほどで退院し製鉄所の仕事場に復帰。私もプロレス界に復帰したかった。結局父を説得するのに3ヶ月かかった。その間私はアルバイトもせずに親のすねをかじりながら製鉄病院にあるボディービルジムで従兄とウェートトレーニングに励んだ。19歳の私は様々の誘惑に負けて遊びにも励んだ。従兄は私より4歳上の会社員、私はプータロー(笑)。従兄に誘われて当時黒崎や小倉の盛り場でよく飲んだもんだ。十代の若造なのに何人かの女性とも付き合った。だがプロレスに対する情熱は落ちない。やっとこさ父を説得し晴れて両親の承諾を得たんだから勇躍上京して全日本プロレス復帰…とはいかない。自己流のトレーニングはやってはいたが散々遊んでいるんだから身体はなまっている。その年の夏、私は再び茅ヶ崎に戻った。以前住んでいたアパートの部屋が幸運にも空いていた。大家さんは顔見知り。何かと融通がきく(笑)。茅ヶ崎駅前のデパートの臨時社員として
働き始めた。いくら厚かましき我が性格なれど、ああいった辞めかたをした身として、さすがにすぐに全日本復帰は望むべきものじゃないとわかっていた。いい加減両親のすねをかじる訳にはいかない。自分の生活費を稼ぎながら身体を再入門までに鍛え直すことにした。計画上翌年の春先をめどにした。だけど今こうして考えて見るにかなりの楽天家。こっちが勝手に計画しているだけで全日本側から門前払いの可能性が大いにあったんだから。やはり若さだったんだろうか、その時はそんなことは考えもしなかった。秋になって、あの鶴田さんがアメリカ修行から凱旋帰国した。短髪のスポーツ刈りから長髪になり、スター性を帯びての帰国だった。「俺がアメリカから戻って来るまでちゃんといるんだろうな?」「もちろんです!」。春の約束を果たさないでいた自分。鶴田さんの凱旋帰国試合の大舞台は超満員の蔵前国技館でのインタータッグ戦。パートナーは馬場さん。相手はファンクス。小型の白黒テレビにかじりついて観る。鶴田さんは眩しかった〓ジャイアント馬場の次の時代を担う
のは鶴田しかいない。ファン、マスコミの期待に果たして答えることができるのか?鶴田さんは見事に答えた。1対1の時間切れ引き分け。テリーを原爆固めに決めた先取点で鶴田さんは一躍馬場さんに次ぐスターレスラーとなった。自分の気持ちは確固たるものとなり、アルバイトしながらの自主トレに一層気合いが入った。朝、西浜海岸でよくダッシュをした。スクワット500回と腕立て300回が日課の日々。そして、1974年4月8日、スーツにネクタイ姿で勝手知ったる六本木事務所に向かった。私は二十歳になっていた。
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渕選手へ
再入門までのお話、拝見しました。ご両親を説得出来た事や自主練習など、大きな夢に至る道程は複雑だった事と存じます。いよいよ再度入門の為に事務所へ向かわれて…勝手ながら緊張して来ました。是非また続きのお話を綴って頂きます様、よろしくお願い致します。天候が変わり雨模様に成りそうです。どうぞお疲れになどなりません様、ご自愛くださいませ。